大学生活の眩しい光が、大学生活最後の年に幻だと気づいた。
大学四年生の夏休み。
最後の夏休み。
何かに憑りつかれたように非日常に出かけまくり、それ以外言葉を忘れてしまったかのように「楽しい」と連呼するSNS。
ああなんだかそれがきっと普通で、普通ってとっても幸せな日々を過ごすことなんだと、身に染みて実感している。
かくいうわたしは、忙しいバイト生活がひと段落して、日々に余裕ができたものの、その日々を共有する人がおらず、家にいた。
誰かを誘うにしてもお金がなく、他の大学生は時間とお金をどこから捻出しているか疑問に思うほどお金がなく、誘えなかった。
家にいても何をやっても無駄な気がして不安になってしまい続かず、何をやったらよいかわからずとりあえずツイッターを開いてリア垢を見ては、知り合いの充実ぶりを目の当たりにしてしまい病んだ。
大学に通っている間は知り合いがたくさんいて、わたしは大学でも友達が多いと思っていて充実感があった。
サークルの雰囲気に馴染めなくても、サークル以外の繋がりがたくさんあるから大丈夫だと思っていたし、実際今まで困ることはなかった。
しかし、大学四年生になり、大学にあまり行かなくなった今、会おうとしないと人に会えない状況になり、連絡を取り合うような関係の人が少ないということに今更気づいた。
蓋を開けてみると、会って遊ぶほどの友達は案外少なかった。
友達はたくさんいたほうがいいと考える人と、少数精鋭で濃く付き合ったほうがいいと考える人がいて、どちらが正しいということはないと思う。
わたしは生きている間でなるべくたくさんの人に好かれたいし、たくさん友達が欲しい。
周りにはおそらくそうではない人もいる。
大学では普通に話していたのに、連絡をとるほど親密ではないから、卒業したら会えなくなってしまうだろう人もいて、それが寂しいという話をしたとき、
「じゃあ連絡すればいいじゃん。」
と言われ、まあ確かにそうなんだけれど、わたしの話したニュアンスが全く分かってもらえず、自分とこんなにも感覚の違う人がいるんだなと思い、びっくりした。
この人はおそらく、
連絡と(ることができ)る人→友達、遊ぶ
連絡とらない人→友達ではない、この先かかわりもない
とはっきりわけているというか、断捨離しているというか、人と広くかかわらない、かかわる必要がない人なんだろうなと思った。
気が立ちやすい時期だったのか、わたしはその方からの頻度の少々多い遊びの誘いに(加え別の訳もあり、)少し疲れてしまっていた。
夏休みの序盤は大学の友達と何度か飲む機会があり、それに加えてその頻度で遊ぶのは精神的にも金銭的にも厳しいと感じ、だからといってその理由で断りづらかった。
気の置けないコミュニティが一つあれば十分と考えている人は、他のメンバーがそうではなかった場合、一方的に依存することになってしまう。むしろ仲のいい人の負担になってしまうことがありえる。わたしはそういうコミュニティが複数あるから遊びたい気持ちを分散させることができる。そういうこと、考えたことないのかな……
なんて驕り高ぶったことを考えていた。
そのわたしがいま、実は蜃気楼だった友達に気が付いて焦っている。
わたしが遊びたい大学の友達は、''友達''がたくさんいて、遊びたい気持ちを分散させている。
その友達を遊びに誘うのはその人に依存することになってしまうのではないか。
負担になってしまうのではないか。
完全なるブーメランではないか。
ブーメランが身体に刺さって痛いし、幸せ自慢のSNSに疲れてしまっているし、治療するにはわたしも心を満たすしかないし。
蜃気楼、消えないで、遊んで友達になろう。
一緒にSNS映えする写真を撮ろう。
いいねの数で、きっとまた病む……